
今回も多くの素晴らしい演奏を聴かせていただきました。
舞台に向かう子どもたちの真剣な表情、積み重ねてきた努力、そして、その成長を支えてこられた先生方の熱意に触れ、今年もたくさんの感動をいただきました。
その一方で、審査をさせていただくたびに、以前からずっと考え続けていることがあります。
それは、「技術」と「表現」を別々の項目として評価することの難しさです。
もちろん、コンクールでは公平に評価するための項目が必要です。しかし、本来の音楽は、技術と表現をきれいに切り離して考えられるものではないように思います。
表現は技術によって実現されます。そして技術もまた、「何を、どのように表現するのか」という理解があってこそ意味を持ちます。
だから、この二つは対立するものではなく、本来は一つの音楽の中にあるものではないでしょうか。
もう一つ、以前から感じていることがあります。
それは、「表現」という言葉の意味は、時代や様式によって大きく異なるということです。
バロックにはバロックの美しさがあります。拍やリズムの秩序を大切にし、その中に自然な呼吸としてのアゴーギクがあります。
古典派では、形式美や均衡、楽譜に書かれたものを深く理解し、構築することが音楽の土台になります。その中から、ごく自然な歌が生まれてきます。
ロマン派では、旋律が大きく息づき、感情を表現するためにルバートが重要な役割を果たします。
そして印象派では、音楽はさらに違う世界を見せてくれます。
ドビュッシーが描こうとしたものは、感情を直接語ることよりも、光や風、空気、色彩、そして響きです。
だから、ロマン派のように大きくルバートをかけたり、フレーズの終わりを毎回ゆっくり歌ったりすることが、そのまま美しい演奏になるとは限りません。
印象派にもフレーズはあります。しかし、それは旋律を歌い上げるためというより、響きや和声の色彩を自然に移ろわせるための流れであり、アゴーギクもまた、その響きに繊細な生命を与えるためのものだと考えています。
つまり、「表現」は一つではありません。
作品が生まれた時代や、その音楽が求めている美しさを理解し、それを音として実現すること。その積み重ねこそが、本当の意味での表現なのではないでしょうか。
さらに、音楽は時代だけではなく、国によっても求められる響きや音色が違います。
ドイツ音楽には構築性と深い響きがあり、フランス音楽には透明感や色彩があります。ロシア音楽には、重厚で大地に根ざしたような音の支えがあります。
そうした違いを知識として知るだけではなく、自分自身の音として表現できるところまで深めていくことが、僕たち指導者に求められていることではないかと思います。
今回のコンクールでも、高い技術に驚かされる演奏がたくさんありました。一方で、表現だけが先に走り、技術が追いついていない演奏もありましたし、反対に、技術は素晴らしいけれど、作品の様式や音楽の方向性が十分に伝わってこない演奏もありました。
どちらが良い、悪いということではありません。
それだけ音楽というものは、技術と表現を切り離して考えることが難しいものなのだと、改めて感じました。
僕自身も、これまでコンクールに参加し、多くのことを学んできました。
だから、コンクールそのものを否定したいという気持ちはまったくありません。
目標があるから努力できること、舞台でしか得られない経験、自分を大きく成長させてくれる機会。それらはコンクールの大きな価値だと思っています。
だからこそ、その目的が「勝つこと」だけになってしまうと、少し寂しい気がするのです。
順位や結果はもちろん大切です。
でも、それ以上に、その舞台へ向かうまでに何を学び、作品とどれだけ向き合い、自分自身がどれだけ成長できたのか。
その積み重ねこそが、子どもたちの未来につながっていくのではないでしょうか。
そして、それは子どもたちだけではありません。
僕たち指導者も同じです。
知識を増やすことだけが学びではありません。
作品を深く理解し、それを自分自身の演奏として実現し、その経験を子どもたちへ伝えていくこと。
その積み重ねが、子どもたちの豊かな音楽を育て、僕たち自身も成長させてくれるのだと思います。
コンクールは、結果を競う場であると同時に、子どもたちも、そして僕たち指導者も、ともに学び、成長できる大切な場です。
そんな場であり続けてほしい。
今年のコンクールの審査を終えて、改めてそんな思いを強くしました。