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ピアノ

表現と響きのあいだに

 演奏しているときの豊かな表情や動きって、その人がどれだけ音楽を感じているかを映す鏡みたいなものだと思うんです。

ただ、時々、その表現が音の流れからちょっとだけ離れて見えることがあります。

そういうときは、つい音よりも動きのほうが先に目に入ってしまって、ちょっと違和感を覚えることもあるのは事実、、。

でも、表情と音がぴったり合っているときは、決してやりすぎには見えません。どんなにオーバーな表情でもね。

そのときには、音楽が自然に息づいていて、心の中で生まれた感情がそのまま顔に表れているだけなんですよね。

だから、表現が音から少し離れて見えるのは、単に見た目の問題じゃなくて、

音の流れをどれだけ感じ取れるかという、聴く人の感性の問題なんだと思います。

そして、それを感じられるのは、演奏をちゃんと聴いて、その本質を理解している人だからでしょう。

音を超えた何かを感じ取れる耳と心がある人ほど、

ほんのわずかなズレにも敏感になってしまうんでしょうね。

でも、それは批判じゃなくて、むしろ音楽を深く愛している証拠だと思います。

そして最後には、音と表情がまた重なり合ったとき、そこには言葉にできない静かな真実があるんですよね。

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音楽は光になる

音楽の舞台の裏には、見えない想いが満ちている。

国際コンクールに出るというのは、

やっぱり「勝ちたい」という思いがあるから。コンクールはそれが目的でもある。

ピアニストたちは、自分の音楽に自信を持っているだけでなく、

「認められたい」という気持ちもきっと強い。

そのチャンスをつかみ、

これからの自分の演奏の場を広げたい――

そんな思いがあるのは、ごく自然なことだ。

そんな気持ちがないピアニストは、

大変な国際コンクールにわざわざ挑戦したいとは思わないだろう。

今や、コンクールや、ましてや難しい国際ピアノコンクールとは無縁な、

平凡なローカルピアノ弾きの僕には、

想像もつかない世界だ。

それに対して、

「出るだけでもすごいよ」

「予選で落ちても、入賞できなくても、あなたは素晴らしい」

「コンクールなんて出なくてもいいじゃない!十分あなたは上手いんだから。」

――そう言われたとき、本人は

どんな気持ちになるのだろう。

僕だったら、正直あまりうれしくない。

優しい言葉なのはわかっていても、

きっと少し苦しくなるだろうな、、。

自分が必死に挑んでいるその舞台の意味を、簡単に「素晴らしい」で片づけられるような気がするからだ。

子どものコンクールとは違う。

そこには、人生がかかっている。

一つの演奏が、

自分のこれまでの全てを背負い、

未来への道を少しずつ切り開く。

その緊張と覚悟は、同じ舞台に立った人にしか分からないだろう。

僕みたいな凡人ピアノ弾きには、きっと分からないことなのかもしれない。

でも、それでも、

誰かの音を心から信じて聴ける人がいる限り、音楽は、きっと救われていく。

そして、信じられるその光は、やがて僕たち自身の心も温かく照らしてくれる。

小さくても確かな希望となり、日々の疲れや迷いをやさしく包み込む――

音楽は、そんな光になって欲しい。

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ピアノ

音楽の道、選ぶということ 

コンクールは、ピアニストにとって自分の力を試す舞台のひとつです。

同じ条件の中で演奏し、審査を受け、結果として順位がつく。

ときに厳しい世界ですが、そこには多くの学びや出会いがあります。

けれども、音楽というものは本来、人と比べるためのものではありません。

「うまい」「すごい」といった評価では語りきれない深さがあります。

審査する人や時代の流れによって、結果が変わることもあります。

だから、コンクールの結果がすべてではないのです。

それでも、コンクールに挑戦する人たちは皆、強い覚悟を持っています。

人前で演奏し、評価され、ときには厳しい言葉を受けることもある。

それでも舞台に立つのは、自分の音楽を信じているからです。

そんな姿に、私たちはただ敬意を持って見つめるしかありません。

コンクールに出る以上、誰もが勝ちたいと願っています。

それは、自分の音楽を多くの人に知ってもらい、

ピアニストとしての道を切り開くための大切な一歩です。

しかし、コンクールに出ない素晴らしいピアニストもたくさんいます。

受賞歴がなくても、世界で愛されている人たちがいます。

彼らは競争ではなく、自分のペースで音楽を育ててきた人たちです。

その生き方もまた、とても美しく、尊いものです。

コンクールに出るか出ないか――どちらが正しいということはありません。

大切なのは、自分の信じる音をどう育てていくか、ということ。

音楽の世界には、たくさんの道があり、どの道にも光があります。

そして、聴衆たちがすべての音楽家を支え、育てる社会になればいいなと、心から思います。

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ヤブウォンスキ氏のリサイタルを聴いて

ヤブウォンスキ氏のピアノリサイタル、そして前日のマスタークラス。

この二日間を通して、私は心の底から「行って良かった」と思えた。

彼の演奏の根底には、徹底した「無駄のなさ」がある。

弾きすぎない。けれども、その抑制の中にすべてが込められている。

あの音量で、十分に表現は伝わってくる。

楽譜に書かれていないことを加えることはなく、かといって無味乾燥になるわけでもない。

テンポは崩れず、ペダリングは濁らず、和声の移ろいが澄んだ光のように響いていく。

旋律は旋律のままで、決して和声に埋もれない。

アゴーギクやルバートは「適度に」、つまり音楽が自然に呼吸する範囲に留められる。

特に心に残ったのはスタカートの扱いだ。

書かれていないアクセントは決して付けられず、スタカートは正しい解釈で奏でられた。

その一音一音の軽やかさと確かさは、重力奏法を自在に操れるからこそ可能なのだろう。

腕や指の力で叩きつけるのではなく、自然な重力をコントロールし、響きを保ちながら切る。

あのスタカートを耳にして、「これこそ正解だ」と思わずにいられなかった。

マズルカには涙を誘われた。

言葉では到底言い表せない、魂に届く響きがそこにあった。

そしてソナタ第3番。

あの清潔で繊細、しかも美しい演奏を、これまで耳にしたことがあっただろうか。

ペダリングは神がかり的で、すべてがドラマティックに展開していった。

スッキリとしていながら壮大で、矛盾のない音楽の流れがそこにあった。

マスタークラスでの彼の指導、そして最後のインタビューから、

「日本人が弾くショパン」をどう見ているのか、何となく想像できた気がする。

日本のショパン解釈は、これからどう変わっていくのだろうか。

ヤブウォンスキ氏の存在は、その問いを私の心に投げかけている。

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聴く力がすべてを決めた

昔はSNSがなかったので、情報を得るには自分で足を運び、自分の身体で体験し、実践するしかありませんでした。お金も時間もかかる時代で、海外まで行くこともありました。

だから、今ネットで見かける情報の多くは、実際に自分で試して経験済みです。

今、自分の中に残っている学びや方法には、例えば以下があります:

•ト◯ティ◯メ◯ード

•重◯奏◯

  •   武◯家の言葉(沖◯空手)

 ・ ク◯エイ◯ィブド◯マ

•ロ◯アピア◯ズム

•◯ーブ◯ンア◯ロー◯

•◯ィー◯ラー教本

•シャ◯ドー◯教本

…など、まだまだあります。

スピリチュアル系、目に見えない系のものも、実はすごく大切な要素もあります。

その過程で気づいたのは、正しい脱力法や指のトレーニング、ロシアンテクニック、丹田の使い方、倍音を響かせる方法…といった「テクニック系講座やセミナー」の多くは、正直なところほぼ眉唾物だったかもしれません😅

僕の最終的な決め手になったのは、「その講師、ピアニスト自身」が理想的な音を出し、素敵な音楽を奏で、合理的に身体を使えているかどうかです。

あの頃僕自身、学習者に最も欠けているのは、それを判断する「耳」と「知識」だと感じていました。

ただ聴くだけではなく、何を聴き取るべきかを理解すること。言語や周波数の影響で、聞こえているものが全てではないことを理解すること。

ピアニストが聴いている音や空間の感覚は、一般の聴衆とは明らかに異なります。

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静寂の余韻、聴く者と響く者

先日の「坂本龍一の見たもの」コンサートは、素晴らしい秋吉台国際芸術村で、素敵なスタッフと聴衆に恵まれての開催だった。

最初の一音を空間に送り出した瞬間、その場所に自分ひとりしか存在しないような静寂が広がった。

演奏はもちろん、練習を重ね、あらゆることを考え尽くして臨む。しかし、音楽家としての楽しみは、ただ再現することではなく、今その瞬間、その空間でどのように響きを彩るかにあるのだ。

その自由な感覚は、音楽家というより、むしろ芸術家としての喜びに近い。予期せぬ方向に音が流れたり、ミラクルな響きが生まれたりすることもある。それを聴衆と分かち合い、心でやり取りしながら伝え、受け取る。その瞬間こそ、ピアニストにとって最高の喜びである。

秋吉台国際芸術村でのコンサートは、まさにそんな幸福な時間だった。

これまで多くのコンサートを経験してきたが、聴衆には二種類がいるように思う。

ひとつは、音楽そのものを聴きに来た人。

もうひとつは、自分を聴きに来た人である。

後者の耳は実に便利だ。演奏家がどれだけ心を込めても、

「自分の価値観」にそぐわなければ即クレームが飛ぶ。

「ここはもっと速く弾くべきだ」

「このフレーズ、なんであんな風に?」

なるほど、どうやら世界はチケット代で支配できるらしい。

こういう聴衆の座席は、自然と審査員席に見える。

半分は評論家気取り、もう半分はスマホをいじりながら「これは違う」と呟く。

演奏家はまるでサーカスの芸人のようで、拍手のタイミングを間違えれば大ブーイング、解釈が独自なら即ジャッジされる。

しかし、本当に音楽を受け止める耳を持つ人は、いつも隅っこの席で静かに聴いている。

その小さな共鳴のために弾くほうが、百人の「評論家ごっこ」に囲まれるより、ずっと幸福だ。

聴衆は選べなくても、演奏家の手から生まれる音は、確かに、静かに誰かの心に響き、余韻として空気の中に漂っていく。

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僕が思うピアニスト像

一般的にピアニストというと、速い指、大きな音、難しい曲を軽々と弾きこなし、長い曲を暗譜し、それなりの表現ができるというイメージがあるとおもいます。

でも、僕にとってそういった技術は、ピアニストとしての条件のほんの一部。んー10%未満、、

ただ「感心する音楽」ではなく、「感動する音楽」でありたい。

正直、時間をかけて練習すればアマチュアさんでもできることです。

僕が本当に大切にしたいのは、美しい音。

そして、その音が自然に、身体に負担なく生まれること。

つまり、音に魂が宿っているかどうか。

ピアニストには、見えないものを信じる力、聞こえないものを聞く力がとても必要だと思います。

音楽は形のないもの。数字や音符だけでは表せない感覚や空気、間合いを感じ取る繊細さが求められます。そして見えないもの 氣 のようなものも。

アンサンブルには、一瞬で自分の役割を理解して相手を立てる思いやりと想像力、

そして自分と違うものを受け入れる力が必要です。

ただ自分の音を出すだけではなく、相手の音に耳を澄まし、支え合いながら一つの音楽を作り上げる。

そうした力を持つピアニストこそ、本当にレベルが高いと思います。

ピアノは一生付き合うもの。

若い頃に「これが正しい」と思っていたことも、年を重ねるごとにどんどん変わり、時には全く違う景色が見えてくる。

それがまた楽しい。ピアノとの長い旅路の醍醐味です。

人としての深さも欠かせません。

どんなに正確に弾けても、心がこもっていなければ、ただの音に過ぎません。

でも、心がある音は、多少のミスを超えて、聴く人の心を動かします。

たまに考えることがあります。

「どうしてこの人はピアノを弾いているんだろう?」

「音楽が本当に好きなのかな?」

そんな疑問が浮かぶ演奏に出会うと、少し寂しくなります。

僕が思うピアニストとは、

ただ技術を見せる人ではなく、音楽を心から愛し、音に魂を宿す人。

その音が、誰かの心に届くことを信じて、誠実に向き合っている人です。

音に魂が宿る――それが、感動を生み、心を動かす音楽になるのだと、僕は信じています。

そして何より、とりあえず楽しくピアノを弾きましょう。

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ターブマンアプローチの技術的、音楽的な効果

ターブマン・アプローチ(Taubman Approach)は、単に「痛みが出ない」や「疲れない」だけでなく、技術的・音楽的に極めて深い効果をもたらします。以下に主な利点を、技術面と音楽表現の面に分けて整理します。

🎹 技術的な効果

1. 精度の向上

無駄な動きが減るため、音の粒立ちが明確になり、速いパッセージでもブレなく演奏可能。 タッチの一貫性が増すことで、コントロールしやすくなる。

2. 難所の攻略

ジャンプ、アルペジオ、レガート、トリル、オクターブなど、**多様な技術に特化した運動原理(リープ、グルーピング、回転など)**があり、どんなパッセージも「合理的に」弾けるようになる。

3. スピードと軽やかさ

身体全体を使った効率的な動きにより、速く、かつ軽やかに演奏できる。鍵盤に無駄に「ぶつけない」ため、スピード感がある。

4. 音色の幅

多様な動き(ダブル・ローテーションやリリースの技術)により、ニュアンスの違いが細やかに出せる。 強い音でも「硬くない」音が出せる。

🎼 音楽的な効果

1. 表現の自由度が増す

技術的に「戦う」必要がなくなるため、音楽の構造や感情に集中できる。 「弾くこと」ではなく「表現すること」が主になる。

2. フレーズの自然な流れ

フレージングに合わせた動き(グルーピング)によって、音楽の語り口が自然になる。いわゆる「歌うように弾く」が物理的に可能になる。

3. 緊張感のない集中

身体の力が抜けている状態で集中できるため、舞台上での緊張や恐怖感が軽減される。 結果として演奏全体が「自然」で「説得力ある」ものになる。

補足:教育的効果

ターブマンは「再現性のある技術教育」が可能。つまり「感覚」ではなく、「原理に基づいて伝えられる」ため、教える側・学ぶ側の両方にとって非常に明確。 これにより、生徒の成長が早く、怪我もしにくい。

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2024クリスマス発表会🎄&コンサート&パーティ

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短編小説(写真付き)「スオミ 静寂を彩る音の軌跡」

なんて温かい、、なんて心地よい、ずっとこの場所に居たい。

 伸哉はそう思った。

 拍手の仕方が違うのか?いや、ちゃんと右左の手を合わせて叩くやつだ。空気か?叩く場所が違うのか?何かがいつものものと違うと感じた。

 笑顔ってほんとはこんなんだったな。忘れてた。あの瞳、なんだろう。完璧に自分を受け入れてくれて、さらに愛を感じる。

「フィンランディア」を弾き終えた時、伸哉の目頭が熱くなっていた。いや特に素晴らしく弾けた訳でもない。

フィンランド人しか居ない空間で、この作品を弾くことがどれくらい緊張感あるか想像はしてた。数年前にヘルシンキでも弾いたしな。

でも 聴衆が立ち上がり拍手をしてくれる間、伸哉の鼓動はずっと早く動いたままだった。

 味わった事のない、感覚、、、

 シベリウスがこの空間に生活し、このグランドピアノを弾いていた。そして、ここで沢山の美しいメロディがうまれ、それを素敵なハーモニーが彩った。

静かな森に佇むこの場所で。

 これまでどれだけの音楽家がそれらを受け継いで、この聖なる地「アイノラ Ainola」で演奏してきたのか。

伸哉はその長い時を経て、繋がっているみんなの想いを、今浴びている拍手と瞳の中に感じとることができた。

その5日前。

伸哉はハラティという小さな町にいた。

 首都ヘルシンキから北に130キロ。内陸にありながらも、湖沿いの港町で都会と田舎の雰囲気が混ざり合った自然沢山!のコンパクトな町。伸哉は意外にこの何もなさと、静かにのんびりとした空気が気に入っていた。

 丁度、この町での大きなフェスティバル「シベリウスフェスティバル2024」が終わったばかり。あと5日くらい早くラハティにいたら良かった、、とかあまり思わない。それが伸哉。

 とはいいつつ、朝起きて、ラハティ市が招待してくれたホテルの朝飯が美味すぎて食べすぎ、これは運動しないと!っと、ふらっと散歩にでると、足はそのフェスティバルの会場「シベリウス タロ(ホール)」の方へ向かっていた。 多分もう人も居ないだろう。それでも良かった。

港の傍にそれはある。ラハティ交響楽団のホームでもあり、ラハティ交響楽団のサウンドがかなり好みなんだが、そんなことも頭に過らず、じっくりシベリウスタロを見る訳でもなかった。とりあえずタロの前まで行き、写真を撮り、そのまま港にあるバーでビールが飲みたい衝動に駆られ、歩いた。

 ビールは美味かった。伸哉にとって目の前に広がる美しく綺麗な青と白が海なのか湖なのかはどちらでもよかった。それをボーっと眺めたまま、ただ動きたくなかった。

ビールがなくなったので立ち上がり歩き出した。多分この道をまっすぐ歩くと、多分ラハティの中心にもどれるはず。多分が、大体当たる。

湖畔?多分湖畔だ!と思い込み、伸哉はゆっくり歩いた。シベリウスのカレリア組曲。行進曲が頭に流れていた。以前ラハティのピアニストと連弾をした事があったなー、とか思い出しながら。

 歩いていると、公園にたどり着いた。観光客か町内会の自然の草木を観察するサークルの皆さん(と勝手にきめつけた)が公園草木アドバイザー(定かではない)のようなシベリウスのような顔したおじさんに説明をうけてる。伸哉は後に紛れて聞いたり、木の方を見て、ほーっ、と頷いたりしていたが、突然、また歩きだした。そう、飽きたのだ。

 

どのくらい歩いただろうか、伸哉はちゃんとラハティの中心に戻っていた。戻らないといけない時間の五分前には、ラハティ音楽院の玄関の前に居た。こう見えても伸哉は5分前行動を、いやなんなら30分行動をするタイプの男。

 そして時間通りに学長室のドアをノックした。が、返事がない。待っていると、多分、宅配のお兄さん?か清掃のバイトか?ハワイ旅行から帰ってきた学生?風な男性がその部屋へ入って行った。学長さんとなんか関わり合いあるかもと思った伸哉は、再度ノックした。ドアは開いた。もちろんさっき入ったお兄さんだ。

「Hello. Is this the president’s room? I’d like to see the president. 」

「Yes, it’s me. Oh, you’re Shinya. Nice to meet you. Please feel free to play the piano in the hall. I’ll show you around.」

どうやら、アロハシャツ、短パン、サンダルの彼が、学長らしいことがわかり、伸哉は「素敵な国フィンランド、自由な国フィンランド、個性溢れる国フィンランド」と呟きながら学長の後ろをついて行った。

とても古く、素晴らしい響きの大ホールにスタインウェイのフルコンが一台あった。何時間でも自由に弾いてくださいと言われたが、まー2時間かなと、ポロポロ音を出してみた。

しびれる。なんと温かい響きなんだ。

静寂のホール内に、また音をばら撒いてみた。シベリウス、クーラ、メリカント、メラルティンの美しい小品達に変わっていった。そして、途切れることなく、フィンランディア。シベリウスの作品の中でもちろん一番有名であろう作品。第二の国家と言われる中間部の讃美歌的な部分はあまりにも知られている。

 以前、ヘルシンキにある「シベリウス音楽院(アカデミー)」でシベリウスの研究と演奏で有名なグラスベック氏に、シベリウス自身が編曲した、フィンランディア ピアノ版の講義とレッスンを受けた。ブゾーニが教授だったころ使っていた部屋とグランドピアノだった記憶がある。

それはおそらく、まだ教授の前では1音もだしてないシベリウスの「もみの木」のレッスンから始まった。

この音はミスプリントで、、こんな理由だよ。これは三拍子だがワルツじゃない。美しいメロディだけどロマン派じゃないからね、こうしないとね、若いピアニストやアジアのピアニストは良く間違えてる、とか、ペダリングはこれはシベリウスらしくないです、とか、ずーっと聞いて約30分間(もっと長く感じた)目から鱗的な素晴らしい講義を受けた後、

やっと

“聴かせてください!”

“あはは はい、、”

弾く前から伸哉は、出直してきた方がいいと悟ったが、いまの自分を曝け出した。

次に、フィンランディア。

教授のこの言葉にハッとした。

「この作品には美しさは一切ありません。悲しみと苦悩と誇り、、。特に中間部のテンポとアーティキュレーションは良く勘違いしてます。」

それらについてのレッスンは伸哉のシベリウス観を一変させた。

伸哉は今、この1人っきりの静かなホールで”あの”フィンランディア”を再現していた。

とにかく伸哉はめちゃくちゃwelcome されていた。日本人だからか?外国人さんには妙に優しくする日本人は沢山いるけど、そんな感じではない。

 ふと、ホールの横のドアから光がさした。誰かが見てる。気にせず弾き終わると、3人の男性が拍手をしてる。

「It was great! Thank you very much.!!」

ジャズ科の学生らしかった。

「ありがとう!」伸哉は日本語で叫んだ。

なんだか嬉しくなり、ホールの違う出口から外に空気を浴びに出ようとした。ホールをでると、そこに女性が一人で勉強していた。彼女は僕の顔を見て、なんやら話したそうにしていた。

伸哉は話しかけようとした、が

彼女の言葉の方が早かった。

「I really love all the Finnish pieces you played. I love them! Thank you for the wonderful time. You are the pianist who will have a recital at the History Museum tomorrow! right?I’m going.」(私!あなたが弾いた全てのフィンランドの作品を凄く愛してます。好きなんです!素敵な時間をありがとうごさいました!あなたは明日歴史博物館でリサイタルするピアニストさんですよね!私行きます。)

伸哉はまた日本語で

「ありがとう!!」と言った。

なんて素敵な国 フィンランド。

伸哉は呟きながら外にでた。そして少し冷たい空気を深く吸い込んだ。

 次の日、ホテルの素晴らしくうまそうな朝食バイキング。ビュッフェと言ったほうがイカしてる?まーようするに朝食の取り放題食べ放題だ。

しかし、伸哉は、今朝はコーヒーとパンとヨーグルトくらいにしておこうと決めてた。

フィンランドにきて食べすぎてるからだ。多分 シナモンロールっていう悪魔がそうさせたにちがいない。美味すぎる。

伸哉は、コーヒーを淹れて、まずパンを決めた。ライ麦のやつ。なんか足らないか?ハムとチーズくらいならまだ許せる。と皿にとった。そして、横にサラダを取る女性をみてしまい、少しなら大丈夫。野菜だし!と山盛りの野菜をとった。これくらいかな。席に戻ろうとすると、ふとなんやら焦げた長い香ばしいものが手を振っていた。いや、そう見えた、、しょうがなく皿にいれた。

カリカリベーコンというやつだ。え?その横にある、プリンの様なたまごの様な、見たこのない物体はなんだ?食べないとわからない。仕方ない皿に入れた。

伸哉は最初の決心のことは、既に忘れていた。

もちろん完食した伸哉はコーヒーをすすりながら、ラハティの地方紙、を見ていた。もちろん、フィンランド語だか、さっぱりわからない。パラパラめくりながら写真だけを見ていた。

ん?え?あー!おー、、まじか?

知っている顔がデカデカと載っていた。

自分だ。 伸哉の顔。

良く見たらどうやら今日の歴史博物館でのピアノリサイタルと2日後のラハティ音楽院のジャズ科の優秀な学生とのライブの告知らしい。

伸哉は、ラハティ市からの招待できていたので公的な新聞に載ったのだ。

伸哉は、もう一杯コーヒーを淹れに行った。少し周りを意識しながら。

だれも見ないし、誰も指をささない

伸哉は 可笑しくなり、なんだかホッとした。

レストランを出ると。伸哉は今日のステージ衣装、黒靴、黒靴下、など、ついでに生活に必要なもの、なんなら、カバンやお土産など、を買いに出かけた。

まー、大変不幸なロストバゲージ

って言うやつだ。戻ってこないんだからしょうがない。今日使うんだからしょうがない。買う。で、とりあえず、忘れることにした。何故なら、今回は全部で4つのコンサートが準備されているからだ。ザワザワした心ではできない。

そして今日、一つ目のコンサートが始まる。

泣いたり、悔しがったり、怒ったり、誰に言うべきかも定かではない苦情を言っても何も前に進まないからな。

全ての不幸を受け入れて、いまそこにある事を楽しむ。伸哉はそんな男だ。

ただフィンランドに遊びにくるだけのはずがこんなことに。いや、感謝するべきだな。ほんとに、前厄とは思えない素晴らしい出来事なはず。

ロストバゲージがなかったら。

そして、無事、いや無事でもない。ユーロの高さに?日本円の低さにやられ、燕尾服は買えなかった。

リサイタルが始まった。

黒シャツに安い黒靴を装い少し緊張した様子でピアノの前へ歩いていき、とびっきりの笑顔で礼をした。席はあの新聞の記事のお陰で満席だった。

オープニングは日本のメロディをモチーフにした即興演奏。こんな遊び心満載、何が起きるかわからないやつが、伸哉は好きだ。いつ終わるかわからないのがいまいちだが、ちゃんと弾き終えた。かなり自画自賛したいできだった。

そして、伸哉は聴衆に向かって礼をし、見渡した。笑顔が溢れている。音楽が好きなんだな!ピアノが好きなんだな!いや?僕のピアノが受け入れられた?んなことはどれでも良かった。ただただ、心地よい空気だった。

2曲目、シベリウスのエチュード、3曲目 シベリウスのもみの木、を続けて弾いた。

静かな森の中にでもいる様な感覚

“エチュード”は 練習曲だけど、この作品のもつ悲しさとハーモニーの美しさは、速いテンポで指の正確な動きだけでは全くもの足らない。Op. 76を全部弾くと、このエチュードをどんなテンポで、どんな歌をシベリウスはイメージしたか分かる。

伸哉は、歌を奏でた。

“もみの木”は、伸哉にとって「死と生」について語る、苦しく、悲しく、切なく、そしてとてつもなく見えない大きな存在を感じる曲。美しさや歌、ハーモニーの美しさだけを表現する薄っぺらいものではなかった。

Jean Sibelius 

Etude op. 76-2

Kuusi Op. 75-5

Jean Sibelius

「10 Pensées lyriques, Op.40 」

1.Valsettoe

2.Chant sans paroles

3.Humoresque

4.Menuetto

Oskar Merikanto

Valse lente 

Toivo Kuula

Häämarssi Op. 3-2

Erkki Melartin

Kaksi Ballaadia Op 5-1  “Kaksi joutsenta”

日本の作曲家はとても興味深く聴いてくれたようだった。

Yamada, Kōsaku

Karatachi no hana for piano solo

そして、プログラム最後「フィンランディア ピアノ版」

Jean Sibelius

Finlandia”, op. 26 no. 7. Arranged for piano by Sibelius.

中間部。伸哉は一度も目を開けなかった。身体も動いてなかった。ただ、深い呼吸をして、聴衆の心の声、シベリウスの声を聴いていた。

終わった。日本以外ではスタンディングオベーションは珍しくはない。演奏者に対しての敬意。聴衆がいまそこにいるアーティストが生み出す芸術を全て受け入れて、その今生まれる音楽を楽しむ想像力がそうさせるのだろう。

伸哉は下手くそな英語でゆっくり喋りだした。

「Thank you all for coming today. Finally, as an encore, I would like to play a Finnish version of a piece by Ryuichi Sakamoto, a very famous Japanese composer. Thank you very much.」(今日は皆さんお越しくださりありがとうございます。最後にアンコールとして、日本のとても有名な作曲家、坂本龍一の作品をフィンランドバージョンで演奏したいと思います。ありがとうございました。)

シベリウスか?の様な出だしから即興は始まり、戦場のメリークリスマス、アクア、などのモチーフが散りばめられた。その演奏は、まさにフィンランドに対する愛そのものだった。

次の日

ホテルの美味い朝食を、また沢山食べてしまい、腹筋に力を入れて、足上げ、ツイスト、しながら、先日ピアノ練習させてもらったラハティ音楽院までやってきた。

そしてアロハシャツ学長さんの部屋へ行き、親しげな挨拶をした。アロハシャツ学長は意外にシャイだった。日本人と国民性似てるとは思っていたが、やはり似てる。

アロハシャツ学長は伸哉をジャズ科の学生達が待っている教室へ案内しながら、伸哉が帰りに迷わないように丁寧に説明してくれていたが、伸哉はいまから何が起きるのかワクワクで上の空だった。

そう、伸哉とジャズ科の学生で明日老舗ジャズクラブでライブがあるのだ。しかも、クラシックピアニストなはずの伸哉を、「ジャズピアニスト」としても実績があると”あの”新聞に書いてあったのを伸哉は見てしまった。Google翻訳でフィンランド語に訳す手間をかけたのがまずかった。知らなかったら良かったかのか、、いや、結果は変わらない。伸哉は、ジャズピアニストじゃないから。

しかし、そんなことは今更

「あーのー。僕、ジャズピアニストじゃないんですよ。そんなアドリブなんて上手くとれませんし、、なんなら有名なスタンダードくらいしかしりませんしー実はそんなちゃんとした、、セッションなんてやったことないですしー。あー!でも、ジャズもどきなら弾けますよ、、でも、、色んなジャンル!そう、色々なジャンルがは弾けるクラシックピアノなんだけど、、あー、、でも」

と言っても遅い。

伸哉は教室に入ると、さらに顔が固まった。いや青くなった。

3-4人の学生と、と聞いていたが、なんと20人以上、しかも卒業生?教員達もずらーっと椅子に腰掛けて座ってるではないか!!!!!!!

そして、軽く紹介され、直ぐに主導権は伸哉に渡された!渡されても、、どうすんの? 何をするか指示してくれって?いや、こちらが聞きたい。多分、試されてるのか?わかったよ、、

伸哉は開き直って、彼らが用意しているナンバーを聞いた。知ってるのは意外に沢山あった。ほっとした、伸哉は、トランペット、ベース、ドラムス、ピアノでアドリブの順番を確認して、スタンダードナンバーを弾いた。

意外にできたみたいだった。ジャズっぽく。学生は優秀な学生が、選ばれたみたいで、かなり素晴らしかった。そういや、ここのジャズ科から有名なジャズマンいるみたいだし。

伸哉は、調子にのって学生に聞いた。

「Are there any famous Finnish jazz numbers? If there are, I’d like to try them out! 」

学生は嬉しそうに

「Yes, there are. “Ranskalaiset korot “is good!!!」

と言って、メロディとコードが書いてある楽譜をくれた。「Ranskalaiset korot、フランスの足音」というナンバーだった。確かに知らない。ぱらっと弾いてみたら、学生がyea that’s it!!

的な反応した。今度はクラリネットの学生が出てきて、早速やってみることにした。

いやー楽しい。良い感じ。なんと素朴なテーマ。目配せも自然にできる様になり楽しいセッションの時間もあっと言う間に過ぎた。

終わるころ、ハッとした。

いまセッションしていた学生達は、この前ホール練習を見に来ていた3人だったのだ。クラシックピアニストってことは承知の上でやってくれてたんだな。ありがとう。

伸哉は明日の夜のライブか楽しみで、仕方なくなった。

次の日の夜。20:00からのライブだ。余裕を持って1時間前にホテルを出た。

15分で着いてしまった。伸哉は30分前行動の男だが、海外では何かあるといけないと早めに着くようにはしてるが、、、全く早過ぎた。

ジャズクラブはとても雰囲気のいい建物と庭だった。まーいい。遅いよりは。ベンチに座り少し冷たい風にあたり待った。

19:50になっても誰もこない。

まさか、場所ちがう?伸哉は建物の周りを見に行った。

あ、、これ?入り口?

ジャズクラブの入り口は反対側の裏口みたいな所だった。

みんな来て準備をしていた。30分前行動の伸哉にとってはかなり悔しかった。誤魔化すように、明るく気さくにみんなに挨拶をしたが、早かったねと言われ救われた。

ライブは20:15くらいから始まった。そこで昨日合わせたナンバーから、今日やるセットリストが配られた。

「フランスの足音」も入っていた。

自然なんだな。

一部が終わったとき、一人の男性が休憩中に英語で話しかけてきてくれた。

「楽しみにしてたんですよ。いや、先日の歴史博物館でのピアノリサイタルに行ってね、とても美しかったんで今日もきちゃいました」

伸哉は嬉しそうに聞いた

「うわ。ありがとうございます。ジャズもお好きなんですか?」

男性は答えた

「僕はジャズがすきだけど、あなたの音楽が心地良かったんですよ」

伸哉は少し戸惑って聞いた

「そう言ってくれたありがとうございます。でも、今日はクラシックは弾かないんですよ。しかも実は、僕、ジャズピアニストじゃないんで、、、」

男性は笑いながら言った

「ここにいるみんな、そんなこと全く考えてもないですよ。温かいひとばかりです。ジャズピアニストとかクラシックピアニストとか関係ないですよ。どうしてそんな事を言うの?楽しく、あなたの音楽を聞きたいだけですから、気にしないで!後半も楽しみにしてますから。」

伸哉は単純な男。2部はもっと楽しく演奏できた事は当然だった。

ラストナンバーは、あの「Ranskalaiset korot」

さ!始めようとしたとき、バーカウンターの奥からマスターがなんやら叫んでる。

何かあったかな?と伸哉はキョロキョロしていたら、一番前に座っていた、かっこいい女性がステージに上がってきた。なんかオーラがある。何かが起きる。

すると彼女は、マイクを持った。

歌うのか!良くお客様を巻き込んでセッションってあるしな。ドラムスが合図出して演奏が始まった。カラオケピアノ伴奏は慣れてる。昔銀座のクラブでやってたし。なんなら、キーも自由自在に移調できるぞ!

歌が入ってきた。

う、上手い、、え?上手すぎる。なんだこのビート感、グルーヴ感!

只者じゃないと、直ぐわかった。また声がいい。

伸哉はアドリブの順になり、多分弾いたはずだが、彼女が素敵すぎて何を弾いたか記憶にないくらいだった。

すごい拍手だった。多分、僕にじゃなく、彼女に。気になってメンバーに聞いてみると、なんと!メジャーデビューしている有名なホップスターだよっ、て教えてくれた。

全ての曲が終わりバックステージに戻ろうとしたとき、伸哉はステージにまた呼ばれた。

え?ここでもスタンディングオベーション。クラシックピアニストがジャズなんて、と誰も思ってない空気感と温かい拍手は、伸哉を幸せにした。

ソロでアンコールを!と言われ、少し考えて坂本龍一!またか。とは思ったが、戦場のメリークリスマス ジャズ(もどき)バージョンを弾いた。原曲の雰囲気はあまりなく、完全に伸哉のバージョンになっていた。

弾き終わり、礼をするとさらにアンコール!iPadから探した。また、坂本龍一.。「koko」に大貫妙子が詩を書き、坂本龍一がピアノアレンジした「3匹の熊」。メロディをクラリネットの彼に吹いてもらうことにした。

知らない曲を通して対話ができる。音楽って素晴らしいな。意外とすぐ感動する単純な伸哉は、ウルウルしながら最後の演奏を楽しんだ。

ライブが終わった。

ほっとしてビールを飲んでいると、一人の男性が話しかけてきた。

「今日のライブ楽しかったです。来てよかった。ところで、最後の、、熊?の曲、(胸を押さえて)熱くなりました。なんて素敵な曲。楽譜があれば見せてくれませんか?」

伸哉は興味深くきいた

「ありがとうございます。音楽関係の方ですか?楽譜ありますよ。LINEありますか?送りますよ。」

男は食いつき気味に答えた

「わー。ありがとう!LINEあります。実は、私は学校の教員で、たまにピアノを弾いてるんです。」

伸哉はLINEに楽譜を送信して話しを続けた

「先生ですか!今楽譜送りましたから、弾いてみてくださいね!」

男はLINEを確認しながら

「そうそうこの部分の転調とコード進行が切なくなんだか心が熱くなるんですよ。」

興奮気味に男は早口で話した

伸哉はうれしくなった。音楽を通してこうやって気持ちを共有できるって素晴らしい。音楽は世界の共通言語。てほんとにそうだなと。逆に、指が早く動いてすごい!とか、よく響く(実際には響くという概念わかっているかどうか、)音ですね!顔の表情が素晴らしい!身体で音楽を表現されていて素晴らしい!とか、、表面的な感想を言う方は全く出会わない。

伸哉は23:00過ぎだが、なんだか気持ち良くてゆっくり歩いて帰った。さすがフィンランドの夜だ!寒い!

「フランスの足音」を口ずさみながら。

そして、ふと思いだした。

僕の荷物、まだ届かないんですが、、。まー、いいか。

明日からヘルシンキだ。

ヘルシンキへ行く朝。

ラハティの友達と奥さんがホテルへ迎えにきてくれた。

実は今から彼らの、湖畔にあるサウナ小屋、また所謂別荘に行くのだ。サウナとランチが目的。伸哉は今日と明日を楽しみにしていた。そう、完全フリー!

伸哉達は奥さんの運転する車でサウナ小屋へ向かった。道は広く、森と湖が左右に広がり、まさにフィンランドだ!と感じられる景色。しかし、どれだけ湖があるのか?Googleマップを見て確認しようとしたけど、あまりの多さで、「たくさん」ということで解決した。

1時間半くらいのドライブで彼らの小屋へ着いた。いやいや、小屋?そんなものじゃない。素敵な別荘じゃないか!伸哉は、車から降りるなり、子どもみたいにウロウロし、奇声をあげていた。

森の中にある、湖畔のサウナ小屋

フィンランドが好きな人たちは、これこそ憧れの場所。もちろん伸哉も初めての体験だった。

庭には沢山のリンゴンベリーが沢山赤く可愛い実をつけていた。

伸哉は摘んで食べた。甘酸っぱい味が口の中に広がる。クランベリーとちがうの?と友達に聞くと、高いところにツルが広がるのがクランベリーでリンゴンベリーは低いとこに這うようにできるんだよ。と教えてもらった。日本語ではコケモモがリンゴンベリーでツルコケモモがクランベリーらしい。

伸哉は友達とサウナの薪を割り、サウナな窯に焚べた。非日常的なちょっとした感動。サウナの温度が上がるまで、伸哉は湖を見ていた。静かだ。そして美しい。

シベリウスもこんな風景を見ていたに違いない。この空気を吸っていたにちがいない。

煩い音楽、激しい音楽が生まれる要素が全くない。

ボーっとしてたら、奥さんが白ワインを運んできてくれた。

「サウナ入ったら、ランチだよ。サーモンの燻製作るよ。伸哉が食べたがってた黄色キノコもあるよ。」

黄色キノコ。映画「かもめ食堂」で見て食べてみたかったやつだ。

Kantarelli(カンタレリ)といって日本のアンズダケの近種と言われるキノコらしい。
市場やスーパーで鮮やかな黄色のこのキノコは一際目を奪うくらいの存在だった。

サウナは。熱かった。いや、あまりサウナは好きじゃないのを忘れてた。2-3分入ったがすぐ出てきた。あまりにも熱くて湖に飛び込むか!と思ったが、心臓麻痺で水面に浮くと迷惑だな、と思いやめた。

奥さんがまたビールを持ってきてくれた。美味い!美味く感じた。なんせこのシチュエーションだし。

サウナから上がり。湖畔のランチ!

非現実的な出来事に伸哉はワクワク。

サーモンの燻製、黄色キノコのクリームソテー、リンゴンベリーが入ってるホットサラダ、美味しいパン、デザートはブルーベリークリームパイとコーヒー。白ワインは何故かドイツワインだったが、美味すぎた。

全て美味しかった。全て素晴らしかった。本当のフィンランドを体験したような感覚。

そして、短い滞在だったサウナ小屋を離れ、再びラハティへ戻ってきた。

友達達と別れ、ひとり電車でヘルシンキへ向かった。

ラハティからヘルシンキまで電車で1時間半くらいかな。寝てたらヘルシンキに到着。

荷物は少ない。何故なら

まだ、旅行カバン?スーツケース?キャリーバッグ?コロコロ?なんて言うのかよくわからないが、あれがまだ伸哉のところに届いてないからだ。

だから、重い荷物をコロコロしなくてすむ。

伸哉はカンピと言う比較的駅に近い場所に宿をとっていたので、街を歩いて、若干迷いつつ、観光がてら、ホテルへ向かった。ホテルと言っても簡単なキッチンや自炊できるものがついてる格安なアパートメントホテル。ラハティでのホテルより一泊二万くらい安い。伸哉は、そもそも安宿、格安航空券のノープラン行き当たりばったりの旅が好きなので、実はウキウキしてた。それは、明日、明後日はフリーだからって言うのもあった。

と言っても伸哉は3日後に2つのコンサートが控えている。ピアノを練習する場所はちゃんと確保してしていた。そう言うところは、変に真面目なのである。B型の隠れA型と言っても、誰も信じてくれないが、伸哉には親のA型の気質が少し混じってると信じている。

宿に着いた。もう18:00過ぎていたが、白夜?じゃないが、まだ昼みたいに明るい。荷物を置いて”聖地”に向かった。夕飯だ。決めていた場所。フィンランドに来る前から決めていた。

ホテルから意外に近かった。一度来た事があるから遠くから、あれだ!とすぐわかった。あの看板は特に分かりますい。

水色のかもめ

そう。「かもめ食堂」

見たところ、全員日本人だ。まーそうだろと思っていた。伸哉は、おにぎりと味噌と黄色キノコの天ぷらを注文した。どんだけ黄色キノコが好きなんだ。かもめ食堂の映画では、とても印象的で幻想的に登場するから、忘れる事はない。

もちろん美味かった。

伸哉は満足し、また歩いてゆっくりホテルへ向かった。知らない街のわからない路地をあても無く歩くのが大好きな伸哉は迷子も楽しんでしまう。そう、微妙に迷子になっていたが何故かホテルまでたどり着いた。

そして、シャワーを浴びてまだ少し薄明るい外を眺めながら、ベッドでビールを飲んだ。こんな普通の時間が好きだ。

そして、、、

いつのまにか、夢の中にいた。

翌朝。夢から覚めて、まだ夢の中にいるような朝のヘルシンキの街を歩いていた。もちろん朝飯だ。ヘルシンキの朝飯は、決まっている。コーヒーとシナモンロール。甘いパンの匂いに誘われて店に入る。シナモンロールは、どの店に食べても、味や形が違うので楽しい。しかも草履みたいに大きいのて、一つでお腹いっぱいになる。で、太ることになる。

ちなみにシナモンロールはアメリカのを良くみる。表面に白いシュガーがとろりとコーティングされてるやつだ。でも実は発祥はスウェーデン。スウェーデンではシナモンロールとは呼ばず、「カネルブッレ」と呼んでる。見た目は、貝殻の渦巻きみたいなやつ。

だが!フィンランドフリークはその両方とも見向きもしないのだ。

“いやそりゃ違う!ぐるぐる巻きで、真ん中が少しつぶれたような形なんだよ!”

とこだわる。それがシナモンロール。フィンランド語では「コルヴァプースティ(つぶれた耳という意味)」

伸哉はシナモンロールだけじゃ足らなくて、カレリアンピーラッカも注文した。

カレリア、、といえば、シベリウスの「カレリア組曲」?シベリウスが作ったのか?いや、そんなはずはない。シベリウスはアイノと新婚旅行でカレリア地方へ行っただけだ。

伸哉はすぐググる癖がある。

カレリア地方、、カレリア地方、。あー、ロシアに近い国境あたりだな。ほーどうやらそのあたりの郷土料理らしい。

シベリウスも食べたにちがいない。これは、伸哉の妄想。

とにかく、このカレリアピーラッカは素朴でなかなか不思議な食感で美味いのだ。ミルク粥をライ麦が入った生地で葉の形に包み、オーブンで焼き上げ、上にゆで卵ペーストみたいなのが乗ってる。伸哉は、通(つう)みたいに

「Excuse me, could you warm that up ?」と言った。

温めた方が美味いのを知っている。

伸哉は、朝飯を食べ終わると、港近くにある、スタインウェイギャラリーまで歩いて行くことにした。なぜなら、太ったからだ。トラムで行くと直ぐ着いてしまう距離を、のんびり寄り道しながら、なんならまたカフェで休憩しながら向かっていた。

港近くにあるマーケット広場には屋台がずらりと並んでる。伸哉がよらないはずがない。以前来た時このあたりが一番気に入ってしまったのだ。

昼くらいからはもっと沢山並ぶが、朝はコーヒーにしとく。海とカモメを眺め、少し冷たい海風を感じながら。遠くのなんとか島(思い出せない)が見える。その、なんとか島に行こうとフェリー乗り場には家族や恋人達が片手にコーヒー片手にシナモンロールを頰張りながら楽しそうに、しかも静かに話してる。それを静かに眺めている伸哉も楽しかった。

あ、島!スオメンリンナ島だ!!突然思い出した伸哉はニヤニヤして嬉しそうに、コーヒーをすすった。

そうこうしていると、スタインウェイギャラリーに行く時間になった。伸哉は「キートス!」と笑顔で言って席を離れ、また歩きだした。

スタインウェイギャラリーの場所はちゃんと調べてる。意外に用意周到。遠足の前の日や、学校に行く前の日は、ちゃんと準備と確認をするタイプなのだ。気になると、深夜でも起きて確認する、隠れA型の気質を持っている。

伸哉は2時間集中した。明後日ある2つのコンサートのプログラムをとにかく弾きまくった。ソロの暗譜を確かめるように。そして、バイオリンとのデュオのプログラム。本番当日の初リハーサルは30分しかないので念入りにした。集中するときは、するのも、伸哉だ。

そしてあっという間に2時間が過ぎ、伸哉はまた「Kiitos !」と笑顔で言ってまた、ヘルシンキの街へ歩いて行った。

今日のメインは終わった。だから、次の予定は決まってない。そこが、さすがB型である。当てもなく歩き始めた伸哉は、ふと思った。

あ、まだ僕の荷物届いてない。

お土産や買った服、帰国時にどうしよう。キャリーケースだ!買わないと。

そのあたりで大きなデパート、、

カンピセンター!ホテルに近いし。

伸哉の目的地は、カンピセンターにセットされ、そこを目指して歩きだしたが、スムーズにはいかない。

小径にふらっと曲がり、ふらっと面白そうな店に入り、またふらっと雰囲気のいい公園でまったりしたり、感じの良さげなカフェへ入りコーヒーをすする。ついでにランチも食べたりした。

そして、カンピセンターへ着いたのは

夕方だった。Googleさんは20分で着くと教えてくれたが、3時間かかっていた。それも旅の楽しさだ。

二日後

伸哉は、朝、ロバーツコーヒーへ行き、コーヒーとシナモンロールを食べて、ヘルシンキ大聖堂の近くにある小さなホールにいた。

今日はダブルヘッダー。2つのコンサートがあるのだ。ひとつは、ここでバイオリニストとオールシベリウスリサイタルだ。もう一つは、この旅のメインである、アイノラのシベリウスグランドピアノでのピアノソロリサイタル。よりによって同じ日に重なってしまった。いや、アイノラは実は、別の日だったんだが、なんか色々コミュニケーションが上手くいかなくてそうなってしまっていた。伸哉は、まーどうにかなる、としか思ってなかった。フィンランド側のオーガナイザーも時間的には充分可能だよ。と言ってそのままの日程で今日に至ったという感じだ。言ってもどうにもならないことは、さっさと受け入れて前に進む!伸哉の生き方は単純のように見えてるだろうが、そうでもない。パソコンで言えば、CPUが命令を処理するスピードを早くすれば早くするほどパソコンは快適になる。伸哉のCPUは意外に処理能力は速いのだ。人間関係や自分の生き方に対する選択能力や決断力はかなり自信を持ってもいい経歴、経験と年輪はもち備えている。しかし、ひとつ増設したいのは、メモリ。だいぶ劣化してるのは否めない。だか、伸哉はそれもまた受けいれて楽しむ。

伸哉はまだバイオリニストが来てないホールでグランドピアノを弾いてホールとピアノの性格を探っていた。

今日の共演者はもちろん初対面だ。で、もちろん初合わせ、でもちろん初共演でのコンサート。リハーサルは30分くらいしかないと言われていたので少し緊張感もあった。

伸哉がフィンランディアの中間部を弾いてると、後ろから拍手が聞こえた。

「素敵な音ね!あ、こんにちは!遅くなってごめんなさい!マリアです。よろしく。」

伸哉はピアノ弾いていた手を止めて後ろを振り返ると、とても笑顔の素敵なそしてとても大らかな感じの女性が立っていた。肩にはバイオリンをかついでいる。今日の共演者だとすぐわかった。

「あ!伸哉です。初めまして!今日のコンサート楽しみにしてます」

マリアはバイオリンを取り出しながら

「私も楽しみよ!早速合わせましょう。ロマンスからしましょう」

今日のプログラムは、オールシベリウスだ。

Romance, Rondino, Valse Triste, Souvenir and piano solo Finlandia

ロマンスを演奏し終え彼女は

「問題はないわね!素敵です。好きだわ、あなたの音楽。」

褒め上手だ。伸哉は、すこし気持ちよかった。単純だ。

「ありがとうございます!マリアさんのバイオリン、とても自然で共感できますよ。楽しいです。」

伸哉もマリアを負けずと褒めた。

ロンディーノ。とてもシベリウスらしい可愛い作品だ。一度合わせた後マリアは言った。

「合わさなくていいわよ。やりたいように弾いて。大丈夫、ちゃんとついて行くから自由にね!そのかわり(楽譜を指さして)ここは私自由に弾くからね!お互い、聴き合いましょうね」

伸哉は笑顔で頷いた。

そして、次に「悲しみのワルツ」の合わせは問題なく最後まで通した。マリアは演奏中も伸哉とコミュニケーションをずーっと取りながら演奏してくれた。演奏中も いいわ!それ素敵!と言ってくれていた。それは初合わせとは思えないくらい素敵な演奏だった。

「伸哉さん。ほんとに素敵で、私は何も問題なかったです。弾きやすかったわ。この曲すきでしょ?伸哉さんも」

伸哉は

「もちろん。大好きですよ。」

マリアは嬉しそうにまた話しだした。

「私たち、フィンランド人はね、悲しい曲や弱くて耳をすますような音が好きなのよ。この、シベリウスの”悲しいワルツ”はとても悲しい物語があるのよ。知ってるかしら?」

伸哉はそのストーリーをもちろん知っていた。

『クオレマ』、、フィンランド語で「死」を意味する。その劇音楽をシベリウスは作曲した。第一曲目がこの曲。ラヴェルはウィンナ・ワルツへのオマージュとして ラヴァルスを書いたが、シベリウスは「死」を題材にして、ウィンナ・ワルツとは全く違った、はるかに次元の高い作品を書いたのだ。ストーリーは確か、、

幼い息子の見守る中、母親が病床に伏している。母親は舞踏会の夢を見て、夢から覚めると病床から起き上がって踊るのだ。すると死んだ夫が彼女を踊りに誘いに来る。だが、夫と思った者は死神だった。母親はそのまま息絶えてしまう。

こんなストーリーだったはず。以前アイノラに行った時、そのインスピレーションを得たと言う絵画を見た。とても恐ろしく、悲しみに満ちた絵画だったがまだ脳裏に焼き付いている。

マリアは伸哉にまた話しかけた。

「日本人も私たちフィンランド人と多分同じでしょ。悲しく、弱い音が好きでしょ?」

伸哉は返事に困っていた。

そう、日本のピアノ業界やコンクールの審査を良くしてると、決してマリアが言う事に頷くことが出来なかった。

「僕は好きですよ。僕はね!」

伸哉は少しはぐらかしたように返事をした。なんだか寂しかった。

気がつくともう客達が入り口に沢山待っいた。2人は控え室へ向かい、着替え、またたわいもない会話をして開演を待った。緊張している空気は無く、今から始まる共演を心からワクワク楽しみにしている、そんな2人だった。

そして、コンサートは始まった。

今日初めて会った2人とは思えない、心の通ったアンサンブル。音の対話は2人をお互い幸せにした。打ち合わせや練習で生まるものじゃない、この即興的な感覚!伸哉のいつも目指している音楽だった。マリアは、本番中も、素敵!今の好きだわ!と伸哉の方を見て小声で言っていた。日本ではない経験。素敵な時間はあっという間に過ぎ去っていった。

「ほんとに弾きやすかった!ありがとう伸哉さん。フィンランディア、あんなに日本人も私たちの経験を理解して演奏できるのね!素敵な演奏ありがとう。またいつか一緒に演奏したいわね。」

伸哉は色々言いたい事が沢山頭をよぎったが

「キートス!ありがとう!また来ます。」

そう言ってありったけの笑顔で、会場を後にした。

そう。今日はもう一つ、このフィンランドの演奏旅行のメインイベントが待ち構えている。

アイノラ、、

シベリウスが好きな音楽家はこの地に一度は来たいと思う。そして、シベリウスの使っていたグランドピアノを触りたいと夢見るのだ。

「アイノラ」はシベリウスの妻アイノの名から取られたもの。フィンランド語で「アイノのいる場所」という意味だ。シベリウスとアイノは、1904年にここに建てた住まいに移り住み、以降半世紀以上をこのアイノラで過ごした。

森の中の、静かな場所。

伸哉はそのアイノラからピアノリサイタルを頼まれたのだ。夢のようでまだ信じきれてない。

現実なのか確かめに、伸哉はヘルシンキ駅からアイノラ行きの列車に乗った。

車窓から見える、森の木々、湖が、伸哉を夢の国に連れて行ってくれてるようだった。

1時間半くらい乗っただろうか、意外に早くアイノラの駅に着いた。

数年前にアイノラへ来た時は、なんだか細い山道を迷いながら向かった記憶があったが、今回はアイノラのコンサートマネージャーが車で迎えに来てくれていた。車だからなのか、道が良くなったのかわからないが、あっという間に到着した。あの、山道を迷いながら歩いたのも、伸哉は意外に好きだったのだが。

伸哉は観光気分でワクワクしていた。併設している美術館のカフェAulisで美味しいコーヒーが待っていた。伸哉はまだリサイタルの事は頭になかった。カフェのショップにシベリウスの言葉が書いてあるフィンランドっぽい写真のポストカードが気になり、数枚手に取りレジへ行った。

「伸哉さん。もうレジは閉めたのよ。ごめんなさいねー。だから、それ全部差し上げるわよ。お土産ね!」

遠くに座ってるマネージャーが笑顔で言った。

伸哉は、あ、じゃ、、これもいいかなー、、とあと2枚手にした。こう言う時は遠慮しないのが伸哉。はっきりしてるのが伸哉だ。

「もちろんいいわよ。他にはいい?」

伸哉は大きな声でお礼を言った。

「キートス!!!」

「そろそろコンサートの部屋にいきますか?グランドピアノ弾いてみる?」

マネージャーのこの言葉で、伸哉のやる気スイッチがオン。伸哉は、後1時間後にこのアイノラでリサイタルをする事は現実なんだと思えてきた。

2人は、静かな森の中に佇むシベリウスとアイノが住んでいた家へゆっくり歩いていた。

花壇には沢山の花が咲いている。周りには木に覆われていて、鳥の囁く声が聞こえてくる。

静寂なこの場に自分の音がどう響くのだろうか。

伸哉はワクワクが止まらなかった。

そして、どうやら夢じゃない事は分かった。

リハーサルは20分くらいしかなかったので、どんなグランドピアノ、どんな響きがする部屋なのかを確かめるだけだった。

一番音が少ない曲。

Jean Sibelius

「10 Pensées lyriques, Op.40 」

伸哉は、敢えてこのマイナーでしかも音が限りなく少なく、しかも派手ではないゆっくりとしたこの作品をこのアイノラで弾きたいと選んでいた。

静寂、、、。

音を出してみる。

その瞬間

自分がシベリウスになった。

と同時に過去へタイムスリップした。

シベリウスの心の軌跡を辿るかのように。

自分ではない何かが伸哉にピアノを奏でさせている。

伸哉は、そんな不思議な感覚を味わっていた。

心地よい。なんて幸せなんだろう。

ついに、夢に見た、アイノラでのリサイタルが始まる。

席は満席だった。

なのに誰も居ないような静けさ。

伸哉は、ゆっくりシベリウスのグランドピアノに向かって歩いて行き、グランドピアノの前で深く礼をした。

不思議と緊張はしてない。

観客の温かい目と受け入れてくれている笑顔がそこにあるから。

そして、さっき会ってきたシベリウスがそこに居たから。

「おわり」

024年11月22日 山根浩志 著

フィンランディア