




先日の「坂本龍一の見たもの」コンサートは、素晴らしい秋吉台国際芸術村で、素敵なスタッフと聴衆に恵まれての開催だった。
最初の一音を空間に送り出した瞬間、その場所に自分ひとりしか存在しないような静寂が広がった。
演奏はもちろん、練習を重ね、あらゆることを考え尽くして臨む。しかし、音楽家としての楽しみは、ただ再現することではなく、今その瞬間、その空間でどのように響きを彩るかにあるのだ。
その自由な感覚は、音楽家というより、むしろ芸術家としての喜びに近い。予期せぬ方向に音が流れたり、ミラクルな響きが生まれたりすることもある。それを聴衆と分かち合い、心でやり取りしながら伝え、受け取る。その瞬間こそ、ピアニストにとって最高の喜びである。
秋吉台国際芸術村でのコンサートは、まさにそんな幸福な時間だった。
これまで多くのコンサートを経験してきたが、聴衆には二種類がいるように思う。
ひとつは、音楽そのものを聴きに来た人。
もうひとつは、自分を聴きに来た人である。
後者の耳は実に便利だ。演奏家がどれだけ心を込めても、
「自分の価値観」にそぐわなければ即クレームが飛ぶ。
「ここはもっと速く弾くべきだ」
「このフレーズ、なんであんな風に?」
なるほど、どうやら世界はチケット代で支配できるらしい。
こういう聴衆の座席は、自然と審査員席に見える。
半分は評論家気取り、もう半分はスマホをいじりながら「これは違う」と呟く。
演奏家はまるでサーカスの芸人のようで、拍手のタイミングを間違えれば大ブーイング、解釈が独自なら即ジャッジされる。
しかし、本当に音楽を受け止める耳を持つ人は、いつも隅っこの席で静かに聴いている。
その小さな共鳴のために弾くほうが、百人の「評論家ごっこ」に囲まれるより、ずっと幸福だ。
聴衆は選べなくても、演奏家の手から生まれる音は、確かに、静かに誰かの心に響き、余韻として空気の中に漂っていく。