
「楽譜はあるけどね、いつも、いま生まれた音楽の様に演奏しないとね。そう、即興演奏してるかの様にね!」
なるほど。即興的に聴こえないから、<嘘>に聴こえるんだな。とは、すぐには結びつかなったんですが、楽譜を音にして表現するときに、何かが欠けているのは確かだなと思いました。
若い頃、ウィーンで室内楽のマスタークラスを受講した際に、レッスンを受けたロシア人ピアニストに演奏を聴いた頂いた後、こんな事をいわれました。
「あなたは、この曲でどんな経験をしましたか?僕には、それが聞いていてわからなかった。」
山根の心の声 (僕もあなたが何を言っているか、わかりません、、経験とは???)
「この曲(ハイドンのピアノ トリオでした)の物語を、初めから話してくれないか。例えばは、僕はね、」
と、具体的にこの音は、この和音は、この転調は、この音形は、このリズムは、こんな事が起きて、こんな気持ちになり、と、時系列で物語を話しだしました。それは、かなり具体的でしかも完成された物語でした。
その後、先生は僕にこう言いました
「さあ!今度はきみが話してください。」
山根の心の声 (え?んー??まず、何語で?英語で?ていうか、それより、物語を話せてっ?おっしゃってます?そんなこと考えたこともないし、、知ってます?音楽は話さなくても、言葉で説明しなくていいんですよー!だからピアノで 、、、あ!!それが、ピアノ で伝わらかったんだ、、ですよね。)
日本で、沢山レッスン受けて、本番も重ねて、自信つけてウィーンへ持って行った曲の中のひとつだったのですが、一日目にしてコテンパンにされ、ノックアウト状態でした。
「明日、楽しみにしてます。レッスンそれを聞いてからね」
「は、はい。わかりました。明日話せるようにしてきます。今日はレッスンありがとうございました!」
とにかくどうにかしないと、と僕は敗北感と絶望感に似たものを肩に背負って、レッスン室を後にしました。
その後、カフェで楽譜と睨めっこ。和英辞書を片手に物語を書いてみました。が、そんな経験したことのなかった山根青年は、今までいかに作品に対して適当に接してきたのかと自己嫌悪状態。まず、物語よりアナリーゼと楽譜をもう一度見る事からはじめました。
そうすると、楽譜の方から話し始めてくれました。面白い!楽しくなり自分なりの物語ができました。ただ、明日は自分の口で話さないといけないのが苦痛でしたが、、(ドイツ語は無理だから英語で) でも「自分の言葉」で伝えることで、演奏が何かしら変わるに違いないと、うっすら感じていました。
物語のプレゼン?まーまーうまくいきました。それと同時に、演奏にもどこか自信の様なものが生まれていました。
なんだろこれは。この「力(ちから)」日本では、使ってなかったのか?
この力、単なる「想像力」って言うもんだよな。普通にみんな持っている力。そして、それを使って、楽譜に書いてある事を、具体的に文章化し、さらに言語化しただけで、こんなにも作品が生き生きとして、動き出すのか。妄想の世界から現実の世界に変わったくらい衝撃的なことでした。
「想像力」
ってすごい。とその時感じました。
→③ つづく